「めがね」勝手に感想文

先日書いた通り映画「めがね」(監督:荻上直子)を鑑賞した。
その感想を書こうとずっと思っていたのだが、いまだ考えが纏まらずにいる。
しかし記憶も曖昧になっていくのでここらでやはり書いておこうと思う。
ちなみにこの感想はネタバレにあたるかもしれないので、気になる人は読まないで頂きたい。
結論から言うと長さを感じはしたが面白かったし大好きな映画になるだろう。だがしかし・・・。


ストーリーはこんな感じである。
春先、南の海辺の村をタエコ(小林聡美)が旅行者として訪れる。
しかしそこは不思議な場所だった。
来客が増えると困るということでとても小さな看板を掲げている宿「ハマダ」の主(光石研)、
村人に毎朝メルシー体操を教え昼間は海辺を訪れる人にかき氷を振舞う(お代は金銭ではなく
その人なりの気持)同じ宿の客サクラ(もたいまさこ)、村の高校教師のはずなのに四六時中
宿の回りをぶらついているハルナ(市川実日子)。
ここはどうやら「たそがれる」のに最適な場所らしい。
しかし、たそがれる為に来たわけではなく、携帯の電波が入らないという理由だけでこの村に
来たタエコは周囲に馴染めず困惑、たそがれるには不向きな別の宿に向かうがそこも求めて
いた場所ではなかった。
結局元の宿に戻るが、回りのマイペース振りにつられてタエコも徐々にたそがれていくので
あった・・・。


要約するとこうだが実際は筋らしき物はほとんど無く、ただひたすらに海辺のスローライフ(?)
を映し出す、そんな映画である。
確かロケ地は与論島(?)だったと思うが、出演者の対談等でも分るようにそこには
島独特の緩やかな時間の流れや空気があったのだと思う。それが映画のそこかしこに
表れている。
その為映画を見ていると実際にそこにいて大気を感じているような感覚になり気持がいい。
そう、とても気持がいいのだ。しかしあまりに気持が良すぎて、私はハッと我に返って
しまったのだ。「いつまでも、ここにいていいのだろうか」と。(実際いないんですけどネ) 


前述で海辺のスローライフととりあえず書いたが、この生活は本当はスローライフとは言えない
ようである。
スローライフとは「有機農産物や地元産の農産物を生産奨励し歩行型社会を目指す、沈着型で
ゆっくりした生活様式」だそうだ。
この点で言えば、タエコが逃げ帰ってきた2番目の宿は自給自足の為に野菜を作り、
その勉強もする生活スタイルだったが、本当はこちらこそがスローライフと言えるのではないか。
この映画の登場人物達は大地に触れて何かを生みだすわけでもなく、ただひたすら海辺で
たそがれる。
さしずめ、彼らの暮らしはスローなテンポで生きているというところであろうか。
そしてそこがもちろんこの映画の気持良いところなのであるが。


ところで、ここまで「たそがれる」と書いてきたがそれはどういう事なのか? 
劇中それらしい事を言っている様でもあるが結局は観た人の解釈に委ねられており、
それによってこの映画に対する印象も大分変わってくる筈である。
私は「リラックスする」事だと解釈した。
リラックスと簡単に書いたがつまりは心の力を抜いて余計な事は考えない。
というか何も考えていない。
おそらくその一瞬だけは自我からも解放されて感性は鋭くなり、その実意識は自己の内面に
向かっているそんな状態ではないか。映画を観ているとそんな感覚に陥るのである。
登場人物達は海辺でカキ氷を食べたり、マンドリンを弾いたり、オセロをしたり、編み物を
したり、ビールを飲んだりして日がな一日過ごす。
そして思い思いの方法でたそがれる。煩わしい人間関係も無し。
話したい人と話したい時に話す(そもそも携帯の電波が通じないので話したくない人とは話さない)。
簡潔で美味しいごはんを食べる。そしてまたたそがれる。なんて素晴らしい、
というかうらやましい。


ここまで読んで頂けば分ると思うがここは一種のユートピアなのだ。
しかもネバーランドの様に大人になったら出て行かなくてはならない場所ではない。
むしろ、大人でなければ居続ける事が出来ない楽園なのだ。
ここで言う大人とはもちろん年齢的な事を言っているのではない。
登場人物達は「何もない」「何もしない」ことは贅沢の極みであると、言葉ではなく感覚的に
理解する感性を持つ個人である。
このような成熟した感性を持つ個人は、ある程度まで人格の出来上がった精神的な大人で
あって、彼らは劇中これ以上無駄に人間的成長をする必要がないのだ。
よく人生に目標や意義を掲げる人がいるが、彼らにはそういった類も必要ない。
前述した本当のスローライフを劇中彼らに行なわせていないのはそういった理由もあるのでは
ないか。作物を育てる事はその成長自体に目標や意義を見出す事でもあるからだ。


もちろん登場人物に何の変化も起こらないというわけではない。
「死にたい」が口癖のハルナは自分が漠然とした死の恐怖に捉われていた事を悟って
「死」を本当の意味で理解するし、何を作るでもなく無心に編み物を編んでいたタエコは、
結果、面白みはないが全く変わらない自分の編目を見て「無理に変わる必要なんかない。
自分は自分である」という事を受け入れる。
どちらも大変感動したシーンであるが、これらはひたすらたそがれて内面を見つめた結果
何気ないきっかけで気付いている。
彼らの思考は他者や海辺の世界以外に向かう事はなく、常に自己に向けられており、
このユートピアはその為に存在しているのだ。


ところで、人間的成長をする必要の無い大人がユートピアに辿り着いた場合、
その大人はいつかユートピアを出て行くだろうか?
私の考えは否である。彼らは出て行かないのではないか。出て行く理由もないし。
劇中「旅はいつか終わるものです」というセリフがある。
これは「旅を終わらせ元の日常に戻る」と理解する事ができる。
そのセリフに呼応するかのように季節が変わり旅人は帰っていくが、このセリフはもう一つ
「ここ(ユートピア)で旅を終えればこれが日常となる」とも解釈できるのではないか。
ラストシーンを見て私はそう思った。


しかし私は「ユートピアに居続ける」のが人間にとって良い事かと問われれば
「そうだ」と言い切る事が出来ないのだ。
何故なのか自分でも説明が付かない。大人にしか許されないストレスのないユートピア
良いに決まっているではないか。でも何かが違うような。
しかし、この映画の世界に対する違和感が何なのか明確に説明することができない。
前述のように、映画にどっぷりはまっている最中でさえ私は「いつまでも、ここにいて
いいのだろうか」とずっと考え続けていた。
更には「この世界にハマリ過ぎると戻ってこれない(笑)」とかすかな恐怖さえ覚えたのである。

  
私事ではあるが、私はあるところに15年間勤務してこの3月で退職した。
昨年度はとてもつらい一年だったが前作「かもめ食堂」を見て一時は勇気付けられた。
かもめ食堂」は、真面目にこつこつと丁寧に毎日を生きる人の日常はそれだけで愛おしく
美しいものであるという事を描いていたからで、この映画は私を現実に踏ん張らせて背中を
後押ししてくれるものになった。
しかし去年この「めがね」を見ていたら私はどうなっていただろうかと考えるとぞっとする。
たぶん仕事や家庭も無責任に何もかもその場で投げ捨ててありもしない(とわかってはいる)
楽園を目指してどこかへ旅立っていたかも等と考えてしまうのである。
もちろんこの映画はそんな事を奨励する内容ではないし、そんな人物も出てこない。
しかし、この映画に流れている強烈な「ユートピア幻想」?は去年の私のようにどうしようもなく
疲れている単純な思考回路の人間には少々毒に感じてしまうのではないか。


そうはいっても、たった3作目でここまでミニマリズムに徹し、なおかつ客を呼べる映画を撮る
この監督に底知れなさを感じる。
この人が今後どのような作品を取り続けるのか大いに興味がある。 (クーラン)