休日

この日は、映画を観に夕方から新宿に出かける。映画鑑賞後、定食屋「長野屋」で食事。
ということで今日の夕飯

カツカレー(オット)、肉豆腐定食(私) 私はレモンサワーできめる。オットは舌負傷中につき呑まず。


★この日観た映画は<語り継ぎたい映画シリーズ>より「ひまわり」(監督:ビットリオ・デ・シーカ 主演:ソフィア・ローレン
マルチェロ・マストロヤンニ、音楽:ヘンリー・マンシーニ)<あらすじ>ナポリで出会い、恋に落ちたジョヴァンナとアントニオ。戦地へ行くことになっていたアントニオだが、結婚すれば
休暇が取れる事を知り、二人は結婚。やがてアントニオはソ連の前線へ送られ行方不明になる。終戦後、夫を諦めきれない
ジョヴァンナは、ソ連に彼を探しに。そこでジョヴァンナは夫の写真を見て動揺する若い主婦に出会う。瀕死の状態で倒れていた
アントニオを救ったマーリャだった。


そういえば、それなりにマストロヤンニの映画を見ているつもりでいたが、テレビ放映ばかり。実際、劇場で観るのは、今回が
初めてということに気が付いた。本作も、大昔、テレビで見て号泣した記憶があって、今回劇場で観る良い機会なので張り切って
観に行く。ところが、意外にも泣けなかった(笑)。
冒頭、恋の炎に身を焦がす二人の(特にジョヴァンナの)熱すぎるパッションに、思わず引き気味になって以降、感情の乗らせ時を
逸してしまったような気がする。やたらと乳を触るマストロヤンニ(アドリブか?)は、甘すぎるイタリアの伊達男の雰囲気が
漂いすぎて、ジョヴァンナに本気なのか、情熱に巻き込まれてしまったのか、いまいちよく分からなかった。
ジョヴァンナは列車で戦地へと向かう夫を見送り、二人に最初の別れが訪れる。
しかし、戦後、ジョヴァンナを待ち受けていたのは、行方不明先のソ連でマーリャと結婚し、子供までもうけていた夫の姿だった。
ショックを受けたジョヴァンナは駆け寄ろうとするアントニオを避け衝動的に列車に乗り込む。二人の二度目の別れだった。
しばらく後、単身ジョヴァンナの元を訪れたアントニオは「一緒にいたい」と告げるが、ジョヴァンナは昔の二人には戻れない
ことを悟る。ソ連へと帰るアントニオをジョヴァンナは列車のホームで見送り、見つめ合う。もう再び会うことはないであろう、
二人の三度目の別れのシーンには、さすがにジンときた。


昔、見た時よりも、随分淡々と鑑賞してしまったが、今回気付いたこともある。
ソ連でジョヴァンナと再会したアントニオは段々と塞ぎ込む。粗末な家から、新しい団地へと引っ越すと、益々鬱々とした
表情になっていく。もちろんジョヴァンナが恋しいという気持ちからだろうが、それだけではないような気もした。
極寒のソ連で死にかけたアントニオは、助けてくれたマーリャの中に小さな平和を見つけ、自分にはそれさえあれば良いと思っていた。
でも、ジョヴァンナに再会した時、「自分には違う生き方もあるのでは」と考え始めてしまったのではないか。
元々がイタリアの太陽の下で陽気に暮らし、32歳になっても「結婚などしたくない」と言っていた男なのだ。
そんな男が、社会主義ソ連で、妻と子の為に工場で働き、箱のような家に帰っていくだけの生活に、僅かな空しさのようなものを
感じてもおかしくはないと思う。
自分はどうしたいのか分からないままに、アントニオはジョヴァンナに会いに来るが、顔を見るとやはり感情が高ぶって
「一緒に逃げよう」と掻き口説く。でも、ジョヴァンナには分かっていた。そうするには、自分達は年をとりすぎてしまったのだ。
昔のように、詐病を図り兵役逃れを企むような、若さに任せたバカな真似をする気力等、今の自分達にはない。
彼らが各々もうけた子供達への愛情は、二人を押し留める現実的な理由だけど、それだけではないのだと思う。
この子供達は彼らが老成したことで得た「分別」や「責任」の象徴なのだ。
この二人は「戦争」で引き裂かれたのは間違いないが、もう一つ「時間(老い)」によっても引き裂かれたのでは。と感じた。
昔、見た時には、愛しあいながらも別れなければならない二人に泣いていたが、今回は成熟と諦観を漂わせ、ただ見つめ合うだけの
二人の別れにジンときた。


ちょっと意外だったのが、本作が1970年の作品だったということ。てっきり60年代の映画だと思っていたので驚いた。
作品の内容だけではなく、全体的に古めかしい映画の作りだと感じる。アメリカではそろそろニューシネマの予兆があった頃だと
思うが、当時のイタリアはどうだったのかしら。(クーラン)