パリパリは結構腹にたまる

いつになったら春が来るのか!今日も午後から雪が降りだしうっすらと積もる。
オットはあまりの寒さにすっかり口数が少なくなっていた。
ということで今日の夕飯

  • 皿うどん(海老・烏賊・浅蜊・豚肉・えのき・白菜・青梗菜・もやし・人参)
  • フカひれスープ(豆腐・ワカメ)
  • ポテトサラダ
  • 焼餃子

 
皿うどんってパリパリして咀嚼する回数が多いせいか、すっごいお腹いっぱいになった(笑)。


あしたのジョー」が実写映画化されるらしい。
まだ間に合うなら即刻中止するべきだ。キャストが云々とかいう問題ではない。
世の中には、決して侵してはならない「領域」というものがある。
この「あしたのジョー」もその一つだと私は思っている。


ジョーの原作は、単行本20巻中の中間地点である8巻に、対力石戦、
いわゆる、宿命の対決がある。
そして力石の死がある。
「あした」を目指してがむしゃらだったジョーは、「親友の死」という「過去」に
がんじがらめになり「あした」を喪失する。それが20巻中の8巻。


なぜ、対力石戦が中盤にあるのか。
本来ならば、宿命のライバルとの対戦こそがクライマックスではないのか。
しかし本作は違う。
主人公のジョーは、おそらくだれよりも自分のことを理解してくれていたであろう男を
死に追い遣ってしまう。
「憎いあんちくしょう」とうそぶいていた力石こそ、たった一人の親友だった
にもかかわらず。
もう「あしたはどっちだ!」と叫んで、しゃにむに走れない。
重い過去を背負って、その重圧に耐えられなくなって、立ち止まってしまう。
あしたのジョーは「あした」を喪失してしまう。
あしたのジョーの「あした」とは、目指すべき未来のことではなくなってしまう。


それでも、生きていかなければならないジョーは、なんとか「生」を実感しようとしてあがく。
9巻以降は「今を、そしてあしたを誠実に生きる」というふうに変化していく。
そしてそれこそが、本作のテーマではないのか。


しかし、2時間前後の映画では、そのすべてを描くことはとうてい不可能であろう。
前半だけを映画にしても、この作品の主題が浮かび上がってこないと思う。
これは映画用に短縮できる原作ではないのだ。
(アニメ版の映画もはしょりすぎていて、登場人物の心情が伝わってこない)
この大長編を映像化するには、時間をかけてTVドラマにするのが唯一の手段だろう。


しかしそれでも、原作の描かれた1970年代と現在とでは、世の中があまりに違いすぎる。
本作を現代に置き換える? 否、ジョーが携帯電話かける姿など想像できない。
70年代をCGで再現するのか?だとしても当時の濃厚で渇いた空気、それを実写に映し出すのは
容易なことではないだろう。


今回のキャストや監督はそれぞれ将来を嘱望されている人達ではないのか?
その人達のキャリアに汚点を残さない為にも、止めるべきではないか。(クーラン)