ありふれた奇跡 第2回

簡単に感想を。
今回、映像的にものすごくいいと思うシーンがあった。
前半、加瀬亮演じる翔太の男所帯。
翔太が台所で夕飯の炒め物を作りながら、爺ちゃん(井川比佐志)、父親(風間杜夫)と噛みあわない
会話を続けるシーン。これがすごいんですよ。


翔太の家はテーブルと椅子の食卓セットを置いている台所とその奥に和室が続く昭和の家屋といった設定。
翔太の家がアイランドキッチンということはまず無いわけで、つまり壁に向かって料理をしている設定
なんだけど、振り返れば台所から奥の和室のこたつまで見通せる奥行きのあるセットになっている。
そして、カメラは台所の壁にあたる位置に「ほぼ固定して」台所と奥の和室にいる三人を同じフレームで
写し演技をさせている。


孫はカメラに向かい、野菜を炒め、肉を入れ・・・といった手順で炒め物を作り、その後ろで爺ちゃんと
父親は台所と奥の和室とを行ったり来たりしながら、三人で延々と噛みあわない会話を続ける。
その間、ほとんどカットを重ねない。


これいわゆる「長廻し」で撮ってるんですよ。
途中、「座る」等の「説明」のためのカットが数箇所入っているが、おそらく、数分間はカメラを
回しっ放しで役者に演技をさせていると思われる。(個人的にはその説明のカットすら必要ないと思った)


このシーンには非常に感銘を受けました。
最近、映画でもこういったシーンはめったにお目にかかれないんですよ。
最近の映像作品の傾向として「セリフを喋る人間が変わるたびにカットが変わる」いうのがある
(特にハリウッド映画)。
セリフを話す人間の顔をその都度大写しにするだけの単調な画面。
下手すれば会話をしているにも拘らず、数分間一つのフレームに二人以上の人間が納まるシーンが
ない場合もある。
別にアップを全面否定しているわけではない。
しかし、これでは、カンペ見て喋っただけの演技に思われても仕方がないと思うのだ。


この撮り方のいけない点は役者の演技力を感じられないことです。
演技というのは役者と役者の掛け合いや間の取り方で時には素晴らしい科学反応を示すことがある。
しかし、カットを切って顔を映しているだけでは、見ている人間には何か起こっていても伝わらないのだ。
別に全てを長廻しで撮れと言っているわけではない。
せめて、フレームに役者同士を納め、今起きている奇跡を記録させるべきだと私は考えているのだ。


そこで先程の「ありふれた奇跡」のワンシーンなのだが。
カメラを固定し一つのフレームに役者全員を写して、役者同志の掛け合いの臨場感を生ませ、
カットを切らないことでそれを余すことなく観客にも伝えている。
しかも、その間、繰り広げられているシーンは重要でもなんでもない噛みあわない家族の会話だ。
イラッときたり受け流したりするありふれた家族の会話を三人の役者ががっぷり組んで演じている。
なんて贅沢なシーンだろうと感動に打ち震えた。


ありふれた奇跡」の山田脚本は、演技のニュアンスによっては全く違った意味にとられる恐れのある
言葉達で構成されている。
それをきちんと解釈し視聴者に伝えるのは役者と演出家の領域だ。
前述のこのシーンは、ただ長廻しで撮っているというだけではなく、会話の微妙なニュアンスや
登場人物の性格等もものすごく表現出来ていたと思う。私にとってはこのシーンこそが奇跡だった。


ただ、脚本に疑問を感じた部分も少し。
後半、喫茶店で翔太が左官の汚れを絨毯に落したことで店員に注意されるが、今時こんな失礼なこと
言う店あるのかなあと少し違和感が。左官屋さんであることをそんなに気にする翔太もどうかと思うし。


しかし、家では健全な顔、翔太には情緒不安定な様相、行きつけのスナックではやつれた表情を見せる
加奈(仲間由紀恵)がとても気になった。次回どう転がるか楽しみです。(クーラン)