三連休中日

休日。この日は、夕方から映画を観に出かける。レイトショーなので車で向かった。上映前に「せんば自由軒グリル」で食事。
ということで今日の夕飯

キーマカレー(オット)、茸のカレー(私)スープサラダセット。私は白ワインできめる。


★「ダークナイト ライジング」鑑賞。
(監督:クリストファー・ノーラン、出演:クリスチャン・ベールマイケル・ケインゲイリー・オールドマン)
〈あらすじ〉ジョーカーとの戦いから8年、バットマンゴッサム・シティーから姿を消し、ブルース・ウェインは隠遁生活を
送っていた。ブルースの家にセリーナ・カイルという女が侵入し、彼の指紋を盗む。彼女に盗みを依頼した組織が大きな計画を
企てていると気付いたブルースは、再びバットマンになる。その頃、不気味なマスクをつけたベインという男が、ゴッサム
ティーの地下で大規模テロを計画していた…。


面白かった。映画の枠を踏み越えた狂気と混沌を描いた前作に比べると、確かにおとなしめであったのかもしれないが、
それでも、三部作の最後に相応しい力作。まさに「伝説を壮絶に終わらせた」。(以下、ネタバレ)


前作では、正義と悪の境界が描かれていたが、本作では、クリストファー・ノーランの考える「ヒーロー論」が提示されて
いたのかなとも思う。
幼少期の悲惨な事件から、ブルース・ウェインは,犯罪を憎み弱者を守りたいという強すぎる信念に憑りつかれてしまった。
「ビギンズ」でついに「バットマン」になり、犯罪者達を震え上がらせる恐怖のシンボルとなる。そして、裏の顔を隠す為、
表向きは大富豪のプレイボーイを面白おかしく演じる。どちらも、正体を明かす事が出来ない、かりそめの姿であることに
違いはない。悪を駆逐する存在となったことと引き換えに、ブルースの全ては「ヒーロー」であることに塗りつぶされてしまったのだ。
ブルース自身は、そんな自分に疑問を抱いてはいなかったと思う。


しかし果たして、世界に「ヒーロー」は必要なのだろうか?
本作のゴッサムシティは、「デント法」の制定でマフィアの犯罪は無くなっている。そして、“光の騎士”ハービー・デントの
罪を被り“闇の騎士”へと堕ちたバットマンは、もう誰からも必要とされない存在だ。
この8年、ブルースはずっと引きこもっていた。「ヒーローであること」がアイデンティティだった彼には、何もない。
ブルースの唯一の軸であったレイチェルも死んだ。今のブルースは空っぽなのだ。
ところが、ジム・ゴードン接触したブルースは、バットマン復活を望む彼の言葉を聞くと、あっさり復帰してしまう。
久しぶりに存在意義を見出し、死に急ぐように戦闘に身を投じようとするブルースを、執事のアルフレッドは嘆き去っていく。
ルフレッドは、ヒーローとしてではなく、ブルース自身の人生を歩んでほしかったのだ。
親代わりのアルフレッドを失い、ブルースの心を守ってくれる者はいなくなる。
忠実な執事として、幼い頃からブルースを守り仕えてきたアレフレッドとの別離は、結構衝撃的だった。
しかし、見続けていくと、この展開は絶対に必要だったことが分かってくる。


そんな時、本作の悪役「ベイン」が現れる。ベインは、その悲惨な生い立ちから、搾取する側の人間を憎悪している。
その憎悪は、格差社会で搾取される側の者達に伝播していき、そのうねりは、武力と爆弾で制圧したゴッサムシティに
「革命」を起こす。ベインはその憤怒を表すように体は大きく、マスクをしていても物凄い存在感がある。
自分の信念を信じているからだ。だからこそ、どこまでも強い。
ベインに完膚なきまでに叩きのめされるバットマン。ヒーローとして誰からも必要とされず、更にはマスクの下の自分は空っぽ。
そんなブルースに勝てるわけがない。敗れたブルースは、世界の最果にある地下牢獄“奈落”へと沈められる。
マスクとスーツを剥ぎ取られ、ブルースの体と矜持を守ってくれる物もなくなってしまった。
更には、ベインに資産をも奪われ、社会的地位もなくなり、ブルースは何もかも失くした。
いまや彼を守ってくれるものは何もない。強くなりたければ、自分の力だけで何かを得なければならないのだ。


文字通り奈落の底から這いあがろうと、地下牢昇りに何度も挑戦するブルース。
恐怖に慄き、絶望に苦しみ、痛みに呻きながらブルースが悟ったもの。
死の恐怖に晒された時、人は自分の弱さを知る。命の大切さを知る。それを知る者こそが本当に強くなれるのだ。
そしてこれは、選ばれた特別な者だけが到達できる境地というわけではない。誰かを守りたいと、その為に強くなりたいと願う誰もが、
悩み迷い思い至り、強くなっていくのだ。
ゴッサムシティを守れるのは、ヒーローのバットマンだけと思いつめてきたブルースは、初めてそれに気が付いたのではないかと思う。
復活したバットマンは、単身で敵に立ち向かったりはしない。同じように恐怖に震え、それでも街の平和を取り戻す使命に殉じる
大勢の警察官とともに闘う。ベインの軍団と警察官達との肉弾戦の画は壮絶だ。あの中では、ベインとバットマンですら、
大勢の中の一人でしかない。ヒーロー映画なのに、ヒーローがヒーローらしく撮れていないようにも見える。
でも、そうではない。終盤、バットマンジム・ゴードンに語りかける。
「ヒーローはどこにでもいる。目の前の子どもの肩に上着をかけてやり『世界は終わらないよ』と優しく励ましてあげる。
そういう男こそが、ヒーローなんだ。」
この時、あの闘いの画に映っていたのは、無数のヒーロー達だったのだと、初めて理解した。ヒーローとは、本当の強さとは何なのか。
一度は全てを失ったブルースが、初めて自分一人で考え導き出した答えが、この言葉だったのだと思う。


最終的には、バットマンの活躍でゴッサムシティは救われる。伝説は壮絶に終わった。
新しいゴッサムシティにヒーローは必要なのか?もちろん必要だ。けれど、街の平和を一人で背負うヒーローは、必要ないの
かもしれない。正義・良心・道徳は、誰かに託すものではなく、一人一人が担っていくもの。その境界と闘う時、誰もが
ヒーローになるのだと思う。その功績を記念して建てられたバットマンの石像は、その象徴のような気がする。
あそこで讃えられたのは、彼だけではなくあの闘いに身を投じた名もなきヒーロー達も含まれているに違いないから。
けれど、いつの日か、それでも倒せない悪が蔓延った時、また「彼」が現れるのかもしれない・・・(笑)。
というオチといい、素晴らしい形でこの三部作を締めくくっていた。


一作毎に、大きなふり幅で、ブルース・ウェインの苦悩と成長を描き切ったシリーズ。
一作目を思い返すと、ずいぶん遠くまで来てしまったなあ。という感慨も(笑)。ヒーロー作品の奥深さに改めて感じ入った。
クリストファー・ノーランの映像感覚とバランス感覚には、脱帽(今回のキャット・ウーマンは、性格的にもヴィジュアル的にも最高)。
今後、どういった形で進化していくのかが楽しみ。
不幸な事件もあったが、とりあえず、一つの伝説をリアルタイムで最後まで見届けられたことは、本当に幸運だったし、
ありがたかったとひしひしと感じています。(クーラン)