ありふれた奇跡 第五話

今回、気になったのは、加奈(仲間由紀恵)が藤本(陣内孝則)に言った
「取り返しの付かないことをした自分の辛さを分かってくれるのは藤本さんしかいないと思って」
というセリフ。


その前の話の流れとして、翔太(加瀬亮)と会った際、加奈は
「誰かと結婚するとしたら、子供6人は多いと思う?」等と質問して彼を困惑させる。
「自分の稼ぎだと6人はムリだけど3人ならなんとか」と真面目に答える翔太(笑)。
更には「自分は一人っ子なので兄弟はいたほうがいいと思う」なんて答えてしまう。
ところが、その後、加奈の「自分は子供を生めない」という爆弾が投下される。
パニックに陥り、つい「子供なんて嫌いだ。欲しくない」と口走る翔太。
そのまま帰ってしまった加奈に、翔太は動揺しながらもフォローのメールを送るが、反応は鈍い。
まあ、悪気はなくとも、加奈が翔太を試したという形になってしまったのは事実です。
そして、加奈からすれば、翔太の本音というか自分が叶えられないささやかな理想を知って落ち込む。
そんな時に藤本に連絡して会うことになった際、彼に言った言葉が前述のもの。


私が気になったのは、個人的に「結局のところ、人はわかりあえない」という考えがあるからです。
人との距離感をさりげなく描くこのドラマを見ていてもそう感じる。
藤本と加奈の哀しみの種類が同じであったとしても、別々の個人である限り、互いの痛みを全て
分かり合えるなんてことは絶対にありえない。それが例え、家族や恋人であってもだ。
人間は結局一人だし、自分の気持の問題は自分で決着をつけるしかないと思うのだ。
ただ私が考えるのは、「人はわかりあえない」ということを理解したうえで、
それでも、人とどう関わっていくのか。ということだ。


このドラマにしても皆それぞれ苦しみを抱えている。
加奈の母親、桂(戸田恵子)はいまだに「空しさ」を抱える日々から抜け出せない。
そんな桂を義母の静江(八千草薫)がさりげなく気遣う。
静江だって、家族の全てを理解しているとは思ってないし、理解しあえるとも思っていないだろう。
それを認識したうえで、桂夫婦とも距離をとっている。
しかし、それは冷たいとか哀しいとかいうことではない。
理解しあえなくても、いつでも手を差し伸べることは出来る。寄り沿うことは出来るからだ。
そしてそれが出来るのは、精神的に自立した個人なのではないだろうか?
静江さんの絶妙な距離感や柔らかいフォローに救われた気持になった。


後半、待ち合わせ先のスナックのママの息子(別居中)が事故に遭い、加奈と藤本は店に取り残される。
電話で亡くなったと聞かされ、動揺を隠しきれない二人。
突然の死の洗礼に過去の記憶を抉られ、哀しみのあまり加奈に縋り付こうとする藤本。
恐怖を感じ拒絶する加奈。
「俺は一人だ。抱き締める相手もいない俺はどうしたらいい」と呟く藤本に
加奈は「それでも生きていくしかない」と答える。
たぶん、藤本は人恋しくて「温かいもの」を抱き締めたかったのだと思う。
幸せな過去を思い出したくないのか、物質的に異常に禁欲的な生活しているので、
その反動で尚更心細さが身に沁みたのかもしれない。


よくあるドラマだったら、ここから男女の関係に・・・という展開もアリだ。
しかし、加奈、というか山田脚本はそういった甘えを許さない。
寄り沿うことと傷を舐め合うことは、まったく別の精神からくるものだからだ。
たぶん、加奈も分かってしまったのだと思う。
藤本に求めていた「わかってもらいたい」という気持と、藤本が加奈に求めている「温もり」は、
傷を舐め合うこと以外の何物でもないということに。
寄り沿うことは出来る。しかし、それは寄りかかることではない。
それぞれの辛さをわかりあうこと等出来ないし、そのうえで生きていくしかないのだ。


第一話から「子供」という言葉に過剰反応する加奈を見ていて、彼女の抱える苦しみの一部は
「子供が生めない」ということだろうなあとは思っていた。
それ以外の事情はまだ明かされていないけど、加奈とテンパッてる翔太の今後が気になります。
(クーラン)