任侠ヘルパー 第九回感想

とっくに第十回も放映されているが、今頃「任侠ヘルパー」第九回の感想を。
〈あらすじ〉車椅子の鷲津(竜雷太)めがけてナイフを構え飛び込んできたりこ(黒木メイサ)だが
彦一(草なぎ剛)と和泉(山本裕典)に阻止され立ち去る。
そんな折、「タイヨウ」の入居者で、病院に入院中の夏夫(峯のぼる)の息子・渉(梶原善)がきて、
夏夫の看取り介護を依頼してくる。
一方、りこと三樹矢(薮宏太)は、四方木連合を襲撃した尾国(鈴木一真)に報復するが捕まってしまう。


今回は「看取り介護」を描く重要な回だった。介護施設を描くということは、そこで起こる「死」も
いつか扱うことになると思っていたが、それをどう描くのか、非常に興味を持っていた。


彦一達の正体を知った鷲津は、自分は狼の巣の中に放り込まれたのかと呟き、彦一に自分の首を
取れと促す。老いぼれて死ぬよりも極道らしく死にたいと言う鷲津。
しかし、彦一は「みっともねぇこと言ってんじゃねぇ」とにべもなく断る。
このやり取りを見て彦一は本当に変わったんだなあと思った。
第一話では、老人を眺めて「年はとりたくねえなあ。」と冷笑し、「誰でも年はとるんです」と訴える
晴菜(仲里依紗)には「俺はああなる前にくたばって死ぬぜ」とせせら笑っていた彦一。
その頃の彦一には「年をとることはみっともない」ことだったのだ。
しかし、今の彦一にとっては、己の美学のために、生きられる命をみすみす放棄する方が、
よっぽど「みっともない」ことに変わっている。これは「タイヨウ」で様々な事情を抱えて生きる老人や
その家族に関わって、彼の人生観が変わってきた証なのではないかと感じる。


一方、認知症が進む羽鳥(夏川結衣)はハートフルバード社長を辞任。会見を開く。
介護施設の本質を現代の姥捨て山と言い切り、介護する側を助けることで、結果的には孤独死する
老人も救うことが出来ると考えたと語る羽鳥。
羽鳥はこれまでも「介護施設は理想から一番遠い場所」と語っていたが、それはヘルパーの過酷な
職場環境を指して言っているのかと思っていた。しかし、それだけではないような気がする。
老人の為にどれだけ快適な空間を作っても、それが結局「姥捨て山」としか思えないなら、
どんなに頑張っても「理想」とやらには近づけないだろう。
そして、「家族」を求め続ける老人にどれだけ心を尽くしても、それは彼らが理想とする暮らしには
到底成り得ない。それは彦一もりこも充分すぎるほど経験してきたことだ。
「介護で壊れそうになっている家族が、あなたを介護施設に入れたら、家族を責めますか?」
この問いに瞬時に答えられる人がいるだろうか?
介護する家族の苦労、施設に入る老人の孤独、それぞれの立場で誰もが思い悩むはずだ。
介護施設はこういった矛盾を抱えて成り立っているものなのだと痛切に感じる。
しかし、本作を見ていると「介護施設に入れられる=捨てられる」という考え方から解放されることが
出来ないのだろうか。とも思う。
羽鳥の「人が人として生きる為に何が大事なのか、見つめ直す必要がある」という言葉に、
深く考えさせられた。


その頃、「タイヨウ」では、夏夫の息子・渉が、夏夫の看取り介護を依頼してくる。
「看取り介護」という言葉を今回初めて知ったのだが、医療的な延命措置を行わず、ただ最期のときが
来るまで世話をするものだそうだ。
「これは父を殺すことになるのでは?父は喜んでくれるだろうか?」と所長(大杉漣)に尋ねる渉。
それこそ家族が真剣に考えて答えを出すべき事ではないのか。
こんなことを他人に尋ねる渉を歯痒くも感じるが、誰かに「それでいい」と言ってほしいという
苦しい気持ちも理解できる。そんな渉に所長は
「利用者の本当の気持は分からない。自分達には精一杯世話する事しか出来ないのだ」と答える。
再び鷲津と同じ部屋に入る夏夫。意識が無くとも晴菜達ヘルパーに手厚く介護をされ、やがて
最期の時を迎える。家族が多忙で看取ることが出来ない中、たくさんのタイヨウの人達に囲まれて
この世を去った。夏夫の遺品を整理していた晴菜は乱れた文字が書かれた画用紙を見つける。
「みなさんありがとう。花ありがとう。ワシズさんありがとう。」
それは不自由な体で夏夫が懸命に書いた感謝の言葉だった。晴菜の花のことも気が付いていたのだ。
どこで死のうと、誰に看取られようと、その人の人生が果たして幸せだったか不幸だったかなんて
誰にも分からないと思う。どう死んだかというよりも、どう生きたかということなのだろう。
夏夫は会いに来ない家族を責めることもせず、向けられる善意を素直に受け止め、同室の孤独な
老人の心も癒した。周りへの感謝も忘れず、意識がなくなっても最後の最後まで精一杯生きた。
それは決してみっともないことではないし、可哀想なことでもない。
介護施設で死ぬ」という事実。それを直視させられながらも、人生を全うすることの意義や尊さを、
一言も言葉を発することのなかった夏夫に教えられた。


夏夫の死後、タイヨウを訪ねる渉。タイヨウで過ごす夏夫の写真を見て「無理しなければ来れなかった。
ということは無理すれば来れたということ。なのに、どうして来てやらなかったんだろう」と嗚咽する。
これまでも渉は彼なりに父親を思っていると感じてきたし、私はこの家族のことを特別冷たいとは
どうしても思えない。皆それぞれの事情を抱えているのだ。
ただ・・・、不思議なもので、人間って、例え誠心誠意相手に尽くしたとしても、亡くなった時は
それでも後悔するんじゃないかと思うのね。「精一杯やった」と思っていても、
「あの時ああしていれば良かった。なぜやらなかったんだ」って絶対に考える。
身勝手な考え方だけど、いつかその時に味わう後悔を少しでも軽くする為にも、努力は重ねていくべき
だと私は考える。


りこに「あんたは、もう極道でも何でもない。」と言われた彦一だったが、りこと三樹矢が捕まると、
仲間をやられて動かない極道はいないと言って、任侠ヘルパー達と救出に向う。
彦一の何かが変わっても、任侠の部分は変わるどころか、むしろ揺ぎ無いものになっていると感じた。
りこが「組というのは、はぐれ者同士が肩寄せあってつくっていくもの。血がつながらない分、
痛みも皆で背負っていく」と言っていたが、考えてみれば、それは介護施設も同じに思える。
赤の他人が集い、生活をともにし、その人達に看取られて逝くこともある。
「人の集まり」としての根本の性質は似通っているのかもしれない(乱暴な考え方だとは思うが)。


羽鳥の病状は進行し、ついに涼太(加藤清史郎)すら分からなくなった!
この親子には幸せになってほしい。でもそれはどういった形で迎えるのか見当もつかない。
次回、なるべく早く見ます。(クーラン)